2014-09-28

Mac DemarcoのWhat's in my Bag





 Amoebaという独立系レコードショップがアップしている"What's in My Bag"というシリーズに大好きなMac Demarcoが登場していました。店舗のレコード棚を漁ってアルバムについて語る動画なのですが、そこで興味深い事実が述べられていました。3:00頃の場面なのですが、ブルース・スプリングスティーンの"The River"を棚から見つけてジャケットのモノクロ具合や字体がデマルコのアルバム"2"に似ているという話が出た時に、実は"The River"ではなく細野晴臣の"Hosono House"の字体を参考にした、とデマルコが言っているのです。海外ではジャパニーズレアグルーヴという扱いを受けている70年代の細野晴臣ですが、まさかこういった形で影響を与えているとは思いませんでした。

 この話だけで今回の記事を終わらすのも何か勿体ないというか味気ない感じがするのでMac Demarcoの魅力についても語りたいと思います。マック・デマルコは若干24歳のカナダ人ローファイインディ系のシンガーソングライターで、2012年にファーストEP"Rock and Roll Night Club"(EPは持っていませんが表題曲はLast.fmで無料DLしました)、ファーストアルバム"2"を発売、2014年の春には"Salad Days"を発表しました。彼の魅力は硬質でコーラスを効かせたビザールなギターサウンド、脱力感のあるボーカル、そしてローファイでサイケなアレンジにあります。コーラスエフェクトを全面に押し出したギターサウンドはこの手のミュージシャンにしては特殊で奇妙な印象を受けますが、そのコーラスとリバーブの掛け具合が心地よいレイドバック感を生み出していますし、楽曲自体もメロディアスなものが多いので気軽に聴けます。
 私がMac Demarcoにハマったのは今年の3月に"Passing Out The Pieces"という"Salad Days"収録のシングル曲をYoutubeで聴いたことがキッカケでした。



 この曲を初めて聴いた時はギターというよりもずっと裏打ちで鳴っているフェイザーを効かせたシンセの音が大変印象的で、「2014年にこんな音を出す人がいるのか!」という驚きを覚えました。その後"2"収録の胡散臭いギターが冴え渡る"Ode to Viceroy"(死ぬまでタバコを吸ってやるぜ、というサウンド同様時代錯誤な歌詞)、メロウな"My Kind of Woman"(PVではデマルコが女装してます)を聴いて完全にハマってしまいました。Ode to Viceroyのビデオはスナッフビデオのような怪しさと8ミリビデオの懐かしい質感が楽曲のムードをうまく伝えている名作だと思います。ぶっちゃけ、"Passing Out The Pieces"のPVの方は悪趣味な気がしますが…。
 僕のような最近のシーンに疎いタイプの音楽好きにオススメ出来る素晴らしいミュージシャンですので聴いたことのない方は是非。まだ若干24歳ということで今後どういう作品を出すのか楽しみです。"2"と"Salad Days"は作風が似ているので、次回はもっとぶっ飛んだものを作って欲しいな。




2014-09-12

元ザッパバンドのドラマー、デヴィッド・ローグマン氏のインタビュー

 歴代ザッパバンドのドラマーの中で最も地味で人気がないと思われるデヴィッド・ローグマン氏(1980年在籍、『ティンゼルタウン・リベリオン』や『ユー・アーホワット・ユー・イズ』の録音に参加)のインタビューが思いのほか面白かったので和訳して掲載することにしました。ソース元はザッパやビーフハート、レジデンツ等の情報データベースサイト、United Mutationsデヴィッド・ローグマン氏のページに掲載されているインタビュー文です。


ローグマン在籍時の演奏(1980年6月11日 パリ/フランス)

Pat Buzby(インタビュアー)からのメール
こんにちは。返信ありがとうございます。お時間があれば質問にいくつか答えていただきたいのですが。質問は沢山ありますので全て答えていただかなくても結構ですよ。
-あなたの音楽的なバックグラウンドはどのようなものですか?ザッパバンドに参加する以前にあなたはMingo LewisとJakob Magnussonのフュージョン系バンドに参加していたようですが、どのような作品に仕上がったのですか?
-ザッパバンドのオーディションはどうでしたか?あなたがツアーの直前にメンバーとして採用されたということを最近お聞きしました。
-ツアーやセッションでの思い出(シャンカールとの共演やピエール・バーレーズがライブを観に来たこと、ピーター・ガブリエルやサンタナとの対バンなど)は何ですか?アーサー・バロウは『ユーアーホワットユーイズ』のリズムトラックが非常に早く出来上がったと私に教えてくれましたよ。スタジオ録りではなくライブ録音による楽曲について何か覚えていますか?おそらく"Theme from the Third Movement of Sinister Footwear"はアルバムの中でも最も変な曲ですよね。どうやって各々の演奏を合体させたんですか?
-onstageシリーズやレコードでも聴けない楽曲に携わったことはありますか?ギターソロでザッパが引用したあるインスト曲(ファンは"Mystery Rehearsal Piece"と呼んでます)が存在するのですが、あなたはその曲のことを知っているようですね。
-チューリッヒ公演の最初であなたは"David Logeman on drums and dust particles"(「ドラムと粉塵担当、デヴィッド・ローグマン」)とザッパに紹介されていますが、これについて何か覚えていますか?
-あなたが在籍していた当時、ザッパは「ポップ」な楽曲を志向していたようですが、ザッパバンドに参加して以来、あなたは「フュージョン」よりもこうしたポップ方面へ進んでいったようですね。時間を経て音楽的な趣向が変化したのでしょうか?
-脱退後ザッパ本人や他のメンバーと連絡を取りましたか?ザッパバンドに長く在籍し、彼の音楽に馴染んだほかの人たちよりも、幸せなキャリアをあなたは過ごしてきたようですが。
-おそらく80年代後半か90年代前半にクリスチャン系のロックバンドにあなたが在籍していたという噂を耳にしました。本当ですか?
-前回のメールでは現在のあなたの素晴らしい写真を頂くことが出来ました。他に加えるべきものはありますか?

David Logemanの回答

親愛なるPatへ
Mingo Lewis and Jakob Magnussonの作品は現在廃盤になっています。ザッパバンドのオーディションは凄かったです。「大きな耳を持ってるか?楽譜は読めるか?ロックは演奏出来るか?」、それが当時の彼がドラマーに要求した条件でした。オーディションの最初の課題は以下のようなものでした、ザッパバンドのメンバーが7/8拍子と3/16拍子のグルーヴを演奏する中、ザッパがドラマーを指揮棒で指してこう言うんです、「演奏しろ!」 ワオ!楽譜を読むのは大変でしたが、私はロック演奏の経験が豊富でした。彼は私をオーディションに4回呼んでくれて、驚くことに、私は54人のオーディションを経てザッパバンドのドラマーとして採用されました。ツアーは最高でしたよ。ヨーロッパをプライベートジェットで回るんです。レッド・ツェッペリンやローリング・ストーンズ、ボブ・マーリーとフランクで会場をローテーションするツアーで、チケットは完売でした。楽しいアメリカツアーには沢山の友人や私の家族が観に来てくれましたよ。私の音楽的バックグラウンドはクラシック、ロック、ジャズで、学歴はイリノイ大学、インターローチェン芸術学校、バークリー音楽大学です。
 『ユーアーホワットユーイズ』はツアー終了後にライブトラックをまったく使用しない形式で録音されました(※正確には"Movement of Sinister Footwear"のギターソロ、"If Only She Woulda"のベーシックトラックはライブ音源)。『ティンゼルタウンリベリオン』には私が参加したスタジオトラック(※おそらく"Fine Girl")と、別で参加したライブトラックが1、2個あったと思います。『黙ってギターを弾いてくれ』やベスト盤にも少し参加していますよ(※実はローグマンは『黙ってギター~』に一切参加していない。"Strictly Commercial"というベスト盤にはローグマンが参加した"Fine Girl"が収録されている)。私はまだリリースされていないいくつかのトラックや、YCDTOSAシリーズとして発売される予定だったフィラデルフィア公演(※おそらく1980年4月29日のタワーシアターでのライブ[Zappateers調べ])のライブアルバムにも参加しました。その音源はもしかしたらRykodiskから発売されているかもしれません。あなたが言及している他のものは単なる即興のジャムで後にフランクが楽曲として仕上げました。彼は一定の文脈の中でたくさんの自由を与えてくれました。彼はかつてやっていたようなロックアルバムが作りたかったのです。
 『オーバーナイト・センセーション』は私のお気に入りのアルバムで、私が在籍していた頃の作品は『オーバーナイト・センセーション』の作風に近いです。私のフュージョンとの関わりは単にお金です。私の目標は、常に自分の給料となる十分なお金を稼ぐためにライブ演奏やスタジオ録音に参加することが出来ている間に、色んなのジャンルの音楽を可能な限り演奏することなのです。神様ありがとう、これらは私が神から恵まれた物です。FZのチューリッヒでの私の紹介は、私がクスリをやらないという事実に基づいた彼によるジョークです。クリスチャンであるにもかかわらず、私はクリスチャン系のバンドには参加したことがありません。
 ええ、私はFZと連絡を取り続けていました。彼はヴィニー(カリウタ)を私の代わりにドラマーに復帰させたことを悪く思っていて、彼は自分の気持ちを楽にする意味で私に多くのお金をくれました。私自身はヴィニーの復帰については冷静に捉えていて、フランクはその事に対して感謝していました。ザッパバンドを辞めた後8年間テレビの仕事を続けていましたが、私はフランクと演奏する機会が無くて残念に思っていました。彼は素晴らしかったです。
 私は参加している様々なプロジェクトで忙しいので現時点で加えるべきものはありません。もっと細かいことをあなたに伝えられず申し訳ないです。しかし、私がフランクと過ごした半年間、沢山の出来事がありました。それは私のキャリアのハイライトでしたが、私が今まで経験してきた中で最も楽しくて価値のあるもの、というわけではありませんでした。
こうした機会を与えてくれた神に感謝します。何故なら、この全ての出来事が奇跡だったからです―それは間違いないでしょう…
ありがとう
デヴィッド・ローグマン

David Logemanの回答②
親愛なるパトリックへ
以下が私がザッパと出会い、バンドに加入した経緯です。
私はあるキーボーディストの友人にザッパバンドのオーディションのことを訊きました。その友人がザッパのマネージャーの電話番号をくれたので電話しましたが、すぐに断られてしまいました。その後、彼らは私がサンタナバンドのMingo Lewis、ジャズ・フュージョン系ミュージシャンのJakob Magnussonの作品に参加し、マイケルコロンビーのバンドでスティーヴ・ガッドの代役を務めた経験があることを知ると、オーディションを受けさせるために私をジョーズ・ガレージに呼び出しました。その日はたしか5人ほどの候補者が居ました。私は単に伝説の男に会いに行っただけであって、バンドに参加するチャンスがあるとは微塵にも思っていませんでした。フランクはすぐにこう言いました、「君たちは『大きな耳』を持ってなくてはならない、楽譜が読めなければならない、ロックを演奏出来なければならない」。ドラムキットは既に準備されていて、バンドの面々(アイク・ウィリス - ギターボーカル、レイ・ホワイト - ギターボーカル、トミー・マーズ - キーボード、アーサー・バロウ - ベース)が変な拍子(7/8拍子と3/16拍子が交互のリズム)をザッパ不在の状態で、また注意や指示すら一切無いまま演奏し始めました。するとフランクは指揮棒で最初のドラマーを指して「演奏しろ!」と言い、そのドラマーのオーディションが一瞬で終了してしまうのを目の当たりにしました。最初のドラマーは拍子を掴むことが出来ず、10秒も経たない内にフランクはバンドの演奏を止めさせて「ご参加ありがとう!(※=もう帰れ)」と言い放ったのです。私は「こりゃマズい!」と思い、私は自分の順番が回ってくるまでにグルーヴを掴んで演奏し始めました。その結果、フランクは私に明日のオーディションにも来るように言いました。
 前日のオーディションよりも参加者が増えていました!LAからNYなどから大物ドラマー達がはるばるオーディションにやって来ていたのです。私は再び振り出しに戻ってしまいました。私の出番が来た時、ザッパは"The Black Page"(※4拍子のリズムの中に連符が大量に盛り込まれたドラマー泣かせの難曲)の楽譜を初見で演奏することを私に要求しました。私は2ライン目に差し掛かったあたりで演奏を辞めました。フランクは「どうした?」と尋ねてきて、私は「初見で演奏するには難しすぎるが、多分演奏出来るかもしれない」と返答しました。彼は「ヴィニー(カリウタ)は初見で演奏した」と言い、それに対し「馬鹿げてる、この曲を初見で演奏出来るドラマーが居るわけがない」と私は言い返しました。フランクはずっと"The Black Page"の演奏を要求していました(ヴィニーはテリー・ボジオが録音したライブ演奏を聞いて"The Black Page"を覚えたと後に私に教えてくれました)。この初見での演奏はおしまいになって、フランクは「やっぱり君は読めないんだな」と言い放ちました。私は「楽譜は読める、他の楽曲を演奏したい」と要求しましたが、却下されてしまいました。なので、私は積み重ねてあった楽譜から他の楽曲の楽譜を抜き取り、それを初見で読んで演奏しました。彼はその演奏を気に入り再びオーディションに来るよう私に言いました。次の日のオーディションはジャズではなくロック系の曲を演奏するもので、ハードロックバンドで何度も演奏してきた私には簡単でした。一方で、ほかの多くの大物ドラマーたちは皆ジャズやファンク畑、スタジオミュージシャンの連中で、ロック物は演奏出来ませんでした。私はこのオーディションの間ずっと黙っていたので、フランクが私のところに来て「今回のツアーに参加したくはないか?」と言いました。私は「フランク(彼はギタリストに転向する前は元々ドラマーでした)がどれほど厳しい男なのか」についての恐ろしいオーディション話に終わってしまうのではなく、ツアーに参加するチャンスがあるなんて未だに考えていませんでした。私は「もちろん」と返答しました。
 それから数日後にフランクが電話してきて、これからバンドがフルプロダクションでのリハーサルに入り、私と他の候補者(Sinclair Lott)のどちらかがドラマーとして採用される、ということを伝えてきました。フランクはその候補者を先に、その後私を参加させるつもりでした。彼らがリハーサルを始める予定だった日にまたフランクから電話が掛かってきて、「もう一人のドラマーが消えちまった。昼食の休憩を取ってたらそいつが帰ってこなかったんだ!明日来てくれないか?」と提案してきたのです。
ということで、私は自分のドラムキットを運んできて、それからフランクが楽曲を電話越しに伝えてくれました。知らない曲でした。フランクはまた別の楽曲も伝えてくれましたが、それも分かりませんでした。彼はさらにもう1曲教えてくれましたが、ダメでした(私は『オーバーナイトセンセーション』以来彼の音楽を聴いていなかったのです)。彼は「どの曲なら知ってるんだ?」と言い、私達は『オーバーナイト~』の楽曲をいくつか演奏しました。いくつか新曲を試しに演奏してから、彼は私にツアーの参加を打診してきました。私は信じられませんでした!もちろんこれはツアーの前にヴィニー(カリウタ)がフランクに賃上げ交渉をしようとして解雇されてしまったおかげなのですが。私は10日間の間に2時間のライブのセットを覚えなければなりませんでした!それはもはやマザーズ・オブ・インベンション(発明の母)ではなく、ブラザーズ・オブ・リテンション(記憶の兄弟)でした!ハ!しかしそれは人生における最高の音楽体験でした。フランクは非常に厳しい人でしたが、誠実かつ公平で、一緒に仕事するのが大変な人間というわけでは無かったです。彼は私に良くしてくれて、私がテレビやスタジオでの仕事をするようになってからもずっと親しい真柄でした。フランクが亡くなる約半年前に彼の家に立ち寄れたのは嬉しかったです。存命中に彼に対して敬意を払うことが出来て本当に良かったです。彼が安らかに眠らんことを…



おまけでデヴィッド・ローグマンの対抗馬だったSinclair Lottのインタビューも和訳しました。

(June 2005)
 フランクはツアーのために新しいドラマーを見つけ、出来るだけ早くリハーサルを始めるための時間に追われていたので、オーディションは強制的な形で行われました。私はオーディションのことを聞き、参加することにしました。それはロサンゼルス中のドラマーが姿を見せ、多くのドラマーがオーディションのためにLAまで飛んでくるような、4日か5日間続いた極めて大規模なオーディションでした。
 全員同じドラムキットで演奏しましたが、多くの参加者の演奏が30秒以上続くことはありませんでした。フランクは彼が求めている音が聞こえないと、バンドの演奏を止めて、その候補者にお礼を言って、次のドラマーの方に移動したのです。私の出番が来た時、彼は楽曲のリズム構成をすぐに私に伝えました。それは私が記憶している限りでは2拍子か3拍子の変なグルーヴで、正確には覚えていませんが、4拍子では無かったです。
 私達が最初の曲を終えた後、彼は別の楽曲をカウントし始めました。私達がその曲も終えた時、彼は"The Black Page"のコピーを私に渡して初見で演奏できるかどうか尋ねました。私は「もちろん、問題ないです」と言いましたが、それは完全なる嘘でした。聴いたことがなかったし、こんな曲をなんとかやり抜こうとしている時に嘘をつくつもりもまったくありませんでした(※ここの訳微妙です。ごめんなさい。)
 とにかく、彼は私にバンドに参加するよう言い、数日間のリハーサルに参加出来るかどうか尋ねてきました。私達は『ユー・アー・ホワット・ユー・イズ』の全ての楽曲をリハーサルしましたが、それから彼は電話を掛けてきて、ツアーには別のドラマーが参加するという旨を私に伝えてきました。
少しショックでしたが、それから3週間も経たない内に私はフレディー・ハバード・クインテットのヨーロッパツアーとレコーディングに参加しました。
 私は現在ロサンゼルスでプロとして演奏していて、今年の9月に私の楽曲が収録されたCDが発売される予定です。


 Sinclair Lottのインタビューを読む限りはリハーサル中に脱走したわけでは無さそうですが、実際はどうだったんでしょうね?気になります。